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2015年1月21日水曜日

無常を知りたい片瞑り(かたつむり):メッターの瞑想編

姿勢固定による苦痛が和らいできた9日目、沈黙から解放される。一週間以上ずっと隣にいて、同じことをやっていたのに初めて会話をする。毎日会っていたのに「初めまして」という奇妙。名前も知らずに、行動から読み取れた個性が会話を通して溶解していく。こんな経験なかなかできない。
そして私の中の中野君は溶けていなくなってしまったのだった。


最後に我々は大事な瞑想法を習うことになる。
メッターの瞑想というものだ。
アーナパーナ瞑想もヴィパッサナー瞑想も個人を主体とし、自分がどのように生きるかを問う瞑想法だが、メッターの瞑想はそこに他者への思いやりを育む。
メッターとは「慈」を意味し、つまり慈しむことであるが、これがないと今までの瞑想法は単に自己完結してしまう。

Billy JoelのCDジャケットが思い浮かんだ
あくまで我々は他者との間に生き、自己を見出していく生き物である。自分だけが変わり、幸せになってもそれは本物の幸せではない。他者を含む環境すべてがよくなることに、自分自身の幸せを見出していく。

そのような意識を育むためにこのメッターの瞑想はある。
方法はヴィパッサナー瞑想ができるようになっていれば、そう難しいことではない。ヴィパッサナー瞑想が終わった後に少し気持ちをリラックスさせ、生きとし生けるものすべてに対してそれらを愛おしみ、そばに寄り添う気持ちで瞑想を行うのである。かなり抽象的で極めるのは難しいのだろうが、修養するためには自分の家族や友人、知人、さらには大きな生き物や小さな生き物に至るまでを思い浮かべて彼らの事を考えればいいのだろうと思う。


最後の日は朝の九時くらいで終わるのだが、帰宅時間に余裕がある人はそこから自主的に掃除や片付けをする。運営委員の会議もある。すでにこの時から私利私欲を捨て他人のために尽くすという、今までの総合的な修養が始まる。できる人間ができる事をやる。
この組織自体が寄付と自主的な労力ですべて賄われているので、彼らがそれを実践しようとしている姿勢が強く見て取れる。


瞑想コースに参加して本当に良かったと思う。今まで生きてきた中でもやもやしていたものが、何となく心の中にしっくりと落ち着いて座ったような、そんか感じがする。まだ整理はついていないけれど。。。

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