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2015年1月18日日曜日

無常(anicca)

  
  色はにほへど 散りぬるを
  我が世たれぞ 常ならむ
  有為の奥山 今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず (いろは歌)

この世の無常を表現した文学は古来より日本に多く存在する。
例えば、 
  ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず 
(方丈記:鴨長明)

  折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ 
(徒然草:兼好法師)

  祗園精舎の鐘の声、
  諸行無常の響きあり。 (平家物語)


このように無常感は日本の文化の底に緩やかにかつ確実に流れてきており、物質に価値を見出すようになった現代でも深い深いところにきっと流れ続けてている。

よく桜のような儚いものを愛おしむ文化には無常観が根底にあると言われるが、このような感情は今でもはっきりと残っているように思う。だから、今でも花びらが落ちる姿、ヒグラシが奏でる音、放課後に誰もいなくなった教室の光の中に、そこはかとない寂しさと同時に、どこか生きることに対する慈しみのようなものを感じるのかもしれない。そして、そのようなシーンはドラマ、映画、小説、漫画、アニメ、様々な作品に表現されている。

もともと四季と言う絶対的な自然の法則と共に生きてきた日本人に、「無常」、「輪廻」を謳う仏教が取り入れられて、それを骨格に、またそれを意識しながら日本独自の方法で無常さを知覚してきたという側面もあるだろう。

わたしが、日本独自と言うのは、無常のとらえ方の問題である。日本の無常は常に自然(自分を取り巻く環境)というコンテクストの中で語られ、仏教における無常は自分の中へそれを見出していく。そこに微妙な違いがあるような気がする。




前置きが長くなってしまったが、私はアフリカ縦断の旅を終えてから、今までの生き方を整理するためにそして今後の生き方を考えるために、ヴィパッサナー瞑想法を用いる10日間の瞑想研修に出かけた。世の中にはいくつも瞑想法があるようだが、この瞑想法の特徴は、

とことん自分の感覚を観察すること

にある。それも客観的に平静心を持って。そのような訓練を繰り返しすることで、自分の意識が物事(快楽や苦悩など)を感情的に処理しなくなる。そして物事を冷静に見定め、よりよい解決方法を導いていくことができるようになるという。

生は無常(anicca)を知ることから始まる
正直言うと参加する前は瞑想と言う響きに宗教的な匂いを感じており、少し身構えていたところがあった。これも外国に出て感じたことだが、日本の社会の空気は宗教に対して強い猜疑心を持っている。おそらく、それは世間をにぎわす新興宗教のせいもあるが、根本は幕末の討幕運動に乗じて急速に推し進められてきた、天皇を現人神とする国家神道が、敗戦により崩壊したことに起因しているのだろう。それまで信じ込まされていた神を神ではないと強引に押し切られた。我々が信じていたものはなんだったのか。宗教、信仰なんて儚く、そしてまた怪しいものだ、と。そして敗戦後はちょうど高度経済成長で物質的に満ち足り、社会全体に唯物主義の気運が広がり始めて、ますます宗教の居場所がなくなってしまった。それが現在の日本の宗教嫌い、宗教軽視につながっていると感じる。

私もやはり宗教への猜疑心はないとは言えなかった。参加する前は宗教色が濃かったらこれきりにしよう、と考えていた。

しかしその瞑想の原理が比較的実生活や実経験と違わないことに驚いた。もちろん科学で証明されていないようなことをやらされたりもする。ただ盲目的に信じるのではなく、自分が知覚できる範囲で経験に基づいて瞑想し、心を鍛え、また心を浄化していくというのが主だから科学信仰に洗脳された私もそこまで抵抗はなかった。つまり、よくあるトランス状態になって気持ちよくなるのではなく、実体的な不快感や快感を経て、それをただ観察し続けて乗り越える処世術が身についてくるのだ。


この世を よりよく生きるために。


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