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2014年10月19日日曜日

1019 I love you

アブシンベルはさすが世界遺産を有する観光地だった。石造の家々が並ぶ町にはブーゲンビリアやノウゼンカズラの仲間がオレンジやピンクの花をつけて乾いた風に揺れていた。

一夜を共にした四人で遅い昼食をとる。新たな国に入って右も左もわからないので、エジプトの旅人カリムとオマルに注文を頼む。ティラピアのフライ。今までの国も川や湖があればたいていどこでも食べることができたものだ。しかし、サワークリームに香料を混ぜたようなソースや、ルッコラのサラダ、スーダンでも食べていた素朴パン、さらにチャーハンみたいなこじゃれたライスが付いてきたので、そのフルコース並みの料理に心が躍った。こんなに食べたら大変な料金になってしまうだろうな、という憂いがまた苦いスパイスとしてそのフルコースの隠し味になっていたのは否めない。そして料金はやはり40ポンド。うほ、さすがエジプトはアブシンベルだ。

カリムとオマルはすでにネフェルタリホテルという高級ホテル(アブシンベルの中では中堅か?)を予約してあったので彼らはそこに向かうという。ジョンも久しぶりに宿に泊まりたいということで彼らと共に行くという。私はそんなホテルに泊まったら鼻血が出てしまうので、彼らと別れることにした。しかし、ジョンが気を使ってくれて、
「ホテルの敷地にテントを張らせてもらえばいいよ、聞いてみる価値はあるよ。実際俺はホテルの敷地に何度も泊まらせてもらってきたからね」
と誘ってくれる。私ももう少し彼らと一緒にいたかったのでジョンの誘いに乗ることにした。

ホテルに着いて、カリムが聞いてくれたがあっさりと断られた。当然だ。ホテルマンよ、君の言は正論だ。仕方なく彼らと別れて別の場所を探すことにしたのだが、カリムは心配してくれてアブシンベル神殿の駐車場に泊まれると思うから、観光警察に聞いてみたら、と提案してくれた。神殿そばにこんなお汚れが眠ってもいいものだろうかと、不安になりもしたが、ダメもとで聞きに行った。

担当の人がいないということで、少し待っていると、バイクに乗ってジョンがカリムと一緒にやってきた。
「高すぎて泊まれない、今夜は一緒にキャンプしよう」
と疲れた顔で言った。彼は四日ほどキャンプ続きで、少し精神的に参っているようだった。カリムはそんなジョンを心配して宿営所を一緒に探しにやってきたのだった。さて、担当者がやってきてカリムがアラビア語で何やら交渉してくれている。本当に助かる。まくしたてと和解を幾度とも繰り返しながら、そんな波が20分くらい続いただろうか。OKサインが出た。カリムは何かあったら携帯に連絡してくれ、と惜しみない厚意を我々に残して去っていった。



ジョンと私はアブシンベル神殿の観光客から見えないところにテントを張ることにした。湖に落ちる崖の上、叢に隠れた場所に決めて話していると、カリムがビニール袋を提げて再びやってきた。水が手に入らないと心配して持ってきてくれたのだ。冷えたコーラも。本当にありがたい。これが旅をするものの心なのかなぁ、と思うことがある。私も時々仲間に対して無性に手を差し伸べたくなることがあるのだ。そういう心を何のしがらみもなく差し出せる環境が旅というものなのかもしれない。そうしてカリムが去った後、二人で宿決まりの儀をコーラでもって執り行い、眼下に広がる青い湖と遠くに連なる赤褐色の岩肌を眺めていた。

ジョンはナミビアのウィンドフックに奥さんと息子二人と住んでいる65歳のバイク乗りだ。彼の祖先はドイツからやってきて、南部アフリカ初の入植者ヤン・ファン・リーベック到着の翌年にナミビアの地に住み着いたという。それから数世代、ドイツとは似ても似つかない乾燥したナミビアにその血を受け継いできた。そう言えばナミビアのウサコスあたりで邸に招待してくれたヨハンさんもドイツからの移民だった。(*ジョンもドイツ語読みではヨハンで同じ名前だが、彼は英語読みで自己紹介したので「ジョン」とした)ジョンはもともとパイロットだったが、退職して三つのホテルを経営していた。それも最近売り渡して、そのお金で家族や、またはこうやって一人で旅をしている。私がナミビアで訪れたおっぱい揺れる町、いやヒンバ族に出会える町オプヲにもホテルを持っていたという。そう言う経歴の持ち主なので、彼の旅は豪華なのではないかなと思っていたが、そんなことはない。先にも書いたが、ウガンダでは始終ホテルの庭にテントを張らせてもらっていたというし、ここんところもテント生活を強いられているという。そして今日も私とエジプトの神様に抱かれてテント泊をしようとしている。それに彼の食べるものの慎ましいこと。インスタントラーメンをよく食べているらしい。

私は彼を尊敬する。彼のお金を使う目的が、明らかに豪華で煌びやかなものを追い求めていないからだ。誤解のないように断っておくが、豪華で煌びやかなものを求める行為にお金を使うことを批判しているわけではない。私が言いたいのは、彼のやっていることってすごく難しいことだと思うからだ。例えば多くの人はお金があって、ある程度の生活水準を手に入れてしまうと、その生活水準を手放すことはできない。例えば少し極端な話をすると、水シャワーを浴びて、薄汚いシーツで眠り、時には風呂も何日か入れないで汗塩まみれのTシャツを身に着けるというのは、普段ふかふかの羽毛布団に包まれ、会員制のサウナに通って、柔軟剤でデオドライズされた綺麗なシャツを着ている人にはなかなか耐えがたいんじゃないだろうか。私は、日本でも中の下くらいの生活をしていたから、いい。でも彼は三つのホテルを持つオーナーだった。そんな彼が私と同じようなレベルの旅を楽しんでいる姿を見て、なんて懐の広い、そして柔軟なひとなんだ、と感じたのだ。それに彼の年齢がまたすごい。私の中の65歳には到底出来そうもないことをやっているのだ。多くの65歳はきっとそんなみすぼらしい旅よりも、優雅で余裕ある温泉旅行なんかを好むのではないか。
そういう意味で、ウルグアイのムヒカ大統領も素晴らしい。普通あのような高い権力の座に着いたら、彼のしているような質素な生活はできない。

彼と私はごつごつの岩場に腰を掛けて渇いた喉にコーラをかけてやっていた。
「本当に今の妻には感謝しているし、旅をしていても彼女のことをとても愛しく感じるんだ」
と、まるでナサル湖の湖面に踊る光の群れに同調するような口調で話してくれた。彼は最初の奥さんと別れている。価値観が合わなかったようだ。彼は昔から色々なことにチャレンジをすることが好きだったそうで、そういう彼の姿を前妻は好ましく思っていなかったという。だからいつも自分を抑え込んで遠慮している自分がいた、と。そういう人生があって今の輝くジョンがいる。そんな彼の姿に私の人生の先輩でもあり大学時代の友人でもある人が重なる。彼も教師を辞めて62歳で大学へ入り、自分のやりたいことを突き詰めていた。お二方に共通しているのは私が恐縮してしまうほどに極めて謙虚なのだ。彼らの半分にも満たない若造の話すことを、とても大事そうに聞いてくれるのだ。そしてまた愛おしむように、一言一句を扱ってくれる。それが嬉しくて、ついついしゃべりすぎてしまうのだ。その謙虚な姿はまた学びの姿勢なのかもしれないとも思った。そうした姿勢が、彼らの探求心に火を点け、幸福な生き方につながっているのだろうと思う。



さっきの警官よりももっとレベルの高そうな警官がやってきて、ここはダメ、というようなことを伝えようとしている。まぁとにかく、事務所へ来い、と。エジプトには観光警察なる組織があるのだが、英語を使わないので、おそらくこの観光は外向きのものではないのだろう。意思疎通ができずに困った。いろいろと説明してくれるのだが、サッパリ、シンベル、チンプンカンプンだ。とにかく、あそこに泊まれないことはわかったが、その理由も、解決策もわからない。アラブ圏はアラビア語という強力な共通言語が存在するので、身振り手振りを使おうともしてくれず、とにかくアラビア語でベラベラベラとイヂメラレル。そんなところへカリムが、「プールから君らが連行されるのが見えた」と駆けつけてくれた。もう、本当に君はいい奴だなぁ!そうして交渉して、ようやく我々の寝床が決まった。それが神殿のそばの元ボタニカルガーデン。そこならテント張って泊まってもいいと、観光警察より正式なお許しが出た。トイレと水道は神殿の駐車場のを使ってもいいという、サービス付きだ。

陽もすっかり落ち、ナトリウムの常夜灯が煌々と照っている。エジプトの観光業の衰退を表すかのように枯れた木々に囲まれて、ジョンと二人で粗末な夕飯を食べながらしめやかに話していた。彼の息子は高校生で、やはり父親と息子色々と難しいこともあるという。それでも彼はとことん息子と話して、その困難を乗り越えてきた。そして、息子と一時期距離を置いたことが彼にとって大きな転換点となった、と彼は言った。それに私も至極同意した。いつも一緒に暮らしていると、どうしても空気が密になりすぎて息苦しくなる。だからジョンはいう。人間同士にはやはりある程度のスペースが物理的にも心理的にも必要なのだ、と。私もこの旅を通して、家族の存在の大きさを強く感じたし、離れている友人に会いたいと思うこともあった。日本にいたときは会いたきゃいつでも会える、と思っていて日々の忙しさに忙殺されて行くのだが、常に頭と心の中にスペースが空いており、大げさに言ったらもしかしたら友人とはもう会えないのではないかという状況を旅によって与えられることで、そんな人恋しい情も生まれてくるものなのだ。

古代エジプト文字でI love you
というのは嘘だが、なんだか誰かを慕って待っているようだ
そしてどういう流れでそういう話になったのかは、はっきりとは覚えていないが、「I love you」を伝えることについての文化比較の話になった。彼は妻にはもちろん、息子にも一日一回は「I love you」を言っているという。欧米の映画やドラマのおかげで、日本人から見れば過剰とも思われる愛情表現の文化に対してさほど大きなショックはないが、日本(東アジア?)のことをあまりよく知らないジョンにとって、日本の親父が息子に「I love you」をめったに言わないどころか、人によっては一生で一度も口にしないという事実はとても衝撃的だったようで、「ありえない、信じられない」と何度か言われた。私の親父に「I love you」なんて言われた日にゃ、きっと来る親父の介護のことが心配になって眠れぬ夜になるであろう。そしておそらく私も、自分の息子ができたら「I love you」とは言わないだろう。(*ここでいうI love youは言葉による愛情表現の代表例として用いている)私の家族や、他の知っている家族を例にとって、日本の一般論を語るつもりはないが、日本人は欧米人に比べて言葉による愛情表現が少ないというのは確かだと思う。最近は言葉で伝えなければわからないYo!、という風潮が日本にも出てきているのでもしかしたら愛情表現を言葉によって成そうとしている人々は増えてきているのかもしれない。しかし、私は日本的な“言葉によらない愛情表現”にも惹かれる。いや、日本文化にどっぷりつかって、シャブ漬けにされた私にはそっちの方がしっくりくるし、できればそういう文化を大事にしていきたいと思っている。


大事なのは「相手に自分が相手のことを大事に思っている」ことが伝わること。その手段が欧米と日本では違いがあるというだけ。だから文化は面白い。

言葉で伝えることを緩やかに封じられた日本では、だから時になかなか伝えられないでうじうじと陰に転がり落ちていく。しかし、欧米はまず口で言うことでそのうじうじした世界から、一気に飛び出すことができる。そういう点で、欧米のコミュニケーションには瞬発力を感じる。一方日本のコミュニケーションは瞬発力はないが、持久戦で味がにじみ出てくるような気がする。そう言えば、日本の陸上も瞬発力は弱い。技術開発も長期にわたって技術力をゆっくり積み上げていくタイプ。偶然か。

カイロで息子と待ち合わせをしているとジョンは嬉しそうに話しながら、それぞれのテントにもぐりこんだ。

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