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2014年10月13日月曜日

1013 宗教について

スーダンを旅しているとイスラム教の偉大さや勧誘を受けることがある。さすがイスラムの国である。
名もなきモスク

クォイッカモスク:300年の歴史を持つ(スーダン北部アブリ)

一神教であるキリスト教やイスラム教と多くの日本人が持つ多神教の感覚の違いは究極的に何なのだろうか。アイヌの神話を読んだり、旅を通して出会ったイスラム教、キリスト教を比べて感じたことをつらつらと書きたい。
一神教はあまりに神様が偉大で世俗的な世界には決してお姿を見せない。故に神様はあまり物言わず人々の生活は大まかな規範のみで規制される。一方我々の多神教は神様がたくさんいる分、神様一人あたりの仕事量は一神教の神に比べて少なく、いろいろな場面で神様が登場する余裕がある。だから生活密着型で極めて神と人が近い存在で、神様もなんだか人間臭い。この人間の創造物なのだから人間っぽくてしょうがないじゃないか、と諦めてとことん人間らしい神々はなかなか潔い。一方一神教は一生懸命神に形はあってはいけないといって偶像崇拝を禁じたり、超人間的な美男子となって登場する。制約がある分、なんとなく歪んでしまっている。
一神教は概念色が強く、形而上学的だが、多神教はもっと実践的なところに主眼が置かれている。それから絶対軸を持とうとする意志があるかないか。

アフリカのキリスト教、イスラム教はなんとなく盲目的なところがある。一神教の主眼はそこにあるのだから本筋から言えば成功しているといえよう。しかし現代は多様な価値観があってそれらがうまく共存していかないと成り立たなくなっている。一国閉鎖しては立ち行かないのだ。そんな中で自分の考え、思想こそが正しいと貫き通しても世界は丸くなるばかりか、各所で対立がどんどん尖鋭化するばかりだ。今のアフリカに必要なのは算数や科学などの教育も必要だが、それよりも早急に多様性を認める教育も必要ではないだろうか?

と書いてふと日本を思う。いかん、日本は宗教的にはもともと多神教だから宗教の多様さには頓着しないが、その他のことに関してはかなり多様性を認め難いところがあるのではないか。その辺はアフリカに劣る。アフリカは出る杭どころかそもそも杭だったり釘だったり、マッチ、歯ブラシ何でもありなので多様性を比較的許容しているように見える。
人間個人にも言えることだが、知らないから怖れ、嫌うという事がある。
世界が諍いなく丸い地球になる一歩はやはり何においても多様性を認め、そのもとで知っていくことであると思う。
宗教は題材が題材なだけに書くのが難しい。今日の記事はメモ程度で読んでもらえればと思う。

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