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2014年10月3日金曜日

1003 孤独について

村もなく、人もいない、ただ無機質な車が時折通る砂漠にいる。スーダンの砂漠は生き物もいない。動くものは太陽と風。

稀にこいつがいた。ヒョウタンの一種で、この球に種子がたくさん入っていて風で転がって種子散布する。まるで放課後の校庭の風景だ。

毎日太陽が昨日と同じ方から昇って、昨日と同じ方へ沈む。風はいつも北西から。


孤独は好きじゃないけれど、一人でいる時間は好きだ。一人になることへ逃げていて気づいたことがある。
孤独とは人がいるから感じるのであって、一人でいるときはむしろ孤独を感じることは少ない。そんなことを思い始めていたらこんな言葉をどこかで見つけた。

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある。


Wikipediaより


三木清という戦中の哲学者の言葉だ。彼はさらに言う。

独居は孤独の一つの条件に過ぎず、・・・(中略)・・・むしろひとは孤独を逃れるために独居しさへするのである                                       *両方とも三木清『人生論ノート』より引用

めったに人の通らない砂漠を走って、知人のみならずあらゆる人からも遠ざかって、私はとことん孤独を味わってやろうと思っていた。しかし、そこで感じるのは孤独という絶望ではなく、むしろ歓迎すべき暖かな孤独であった。というのも独りになるという状況が、私に次から次へと家族や友人への愛しさを抱かせていったのである。孤独を求めた結果、結局孤独になりえなかった。深く考えたことがなかったためにはっきりと意識していたわけではないが、きっとこうなることが分かっていて、つまりもっと身近な人への慈しみを持とう、という潜在意識が働いていたのだと思う。おそらく孤独とは私の中から家族や友人への暖かな気持ちがなくなった時のことだろう。

人を想う時間的、空間的余裕のある中で、私の中では人恋しさが増していった。そんなんだったから、砂漠の真ん中で緑を発見した時は嬉しかったなぁ。蜃気楼なんかじゃない。人が地道に慈しみ育んできた木々だ。家族親族で砂漠の真ん中、農業を営んでいた。道の反対側20mほど入ったところには広く日影が設えてあり、その三分の一ほどの小さな土壁の家があった。日陰の下には相変わらずハンモックベッドが並べてあり、年配の女性と4人ほどの小さな子供たちがいた。人に飢えた私は思わず手を振ってみたが、こちらを見つめているだけで特に反応はしなかった。

人がいるところには水瓶がある。これがスーダンだ。ここも例にもれず、ナツメヤシの葉で葺いたあずまやにたっぷりと水が湛えられた水瓶が六つも置かれていた。

私は遠くで子供らをあやす女性に身振りで「水、頂きます」と伝えて飛びついた。冷たくて美味しい。砂漠で拾ったスチールのコップで5,6杯飲んだ。ナツメヤシと一緒に。我慢せずとことん水を飲める幸せ。肉体的な渇望は消え、水の心配という精神的な渇望、さらに人に会いたいという渇望も少し満たされていった。

反対側の緑豊かな農地から二人の男がやってきて、道を渡っていった。それから元気のいい男の子を連れて一輪車を押して戻ってきた。写真を撮ってくれとポーズを決める。何枚かシャッターを切る。私のレンズに映る彼ら。彼らのレンズに映った私はどんなだったろうか。


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