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2014年2月3日月曜日

「ちょうだい」を返してみると。。。

ルサカでお金をおろしておけばよかったものの、財布の中を見て「お、まだずいぶんあるじゃん」とこの先のどこかで引き出せばいいやと思っていた。ジンバブエに長くいたおかげでドルの数字感覚に慣れてしまっていたのだ。

気付いたら、財布の中にはZMW5(100円くらい)しかなくなっている。お金をおろそうと町というか村を探すがあるはずもなく。。。いやぁ、本当に困った。旅始まって以来の困り様だ。そもそもザンビアでは宿やキャンプ場を利用していなかったので一日に要する費用が2-300円くらいだったのでお金のことが頭から消えていた。お金がなくてもやってこれたという幸せな事情のせいだ。ぬるま湯は人をダメにするいい例になってしまった。。。

そんなこんなで次の大きな町チパタ(Chipata)までおろせないことを考慮して、あぁあと数日の行動食をパン一斤で済ませなければならないのか、と考えるととても憂鬱だった。旅の楽しみの大半は食にあるのに、、、今後道端の不思議な食べ物をみすみす食べ損ねるのが残念で仕方がなかった。
夕飯は調理ストーブを使ってシマを作り、乾物の煮物で何とか済ませられるので心配はいらなかった。

いやぁ、困ったなぁ、腹も減ったなぁ、と何もない場所、しかし少し森に入ると家々が点々と存在している場所を走っていた。道脇で元気のいい女がニャンジャ語で何か私に話しかけてきた。その仕草からすぐに彼女が「腹が減ったから何か食べ物をくれ」と言っているのがわかった。
「ばっきゃろい、こちとら腹は減ってんだぃ!何か食べ物をくれ、シマだ、シマをくれ!」と言うと、「なに?あんたも腹が減ってるの?じゃあうちに来なさい」と手招きするではないか。もう何が何だか意味が分からない。でも彼女の行動こそが恐らく多くのアフリカの人が取る行動なのではないか、と今までの経験を照らし合せてみて思えてきた。

目の前に腹が減っている人がいたら恵んであげないではおれないのだ。それにお金や物を求めるのだって、多くの人が切羽詰っているわけではなく、あわよくば、、、というくらいのことが多い。

自分は貧しいから常にもらう側にいる、というわけではないのだ。その立場は貧富の順を維持していながらも逆転することは多々ある。また物を求めているのだから、物をあげるはずがないということでもない。

アフリカで二年間生活してきて感じたのは「我々先進国ほど因果の縛りがない」ということだ。そしてそれが時に我々の眼にはとても不合理でわけのわからない行動に映る。例えばお金を横領してしばらく姿をくらました人が再び関連施設でのうのうと働いていたり、ズマだってよからぬ疑いをたくさん持っていながらも現在南アの政権を握っている。身近な例で言えば、貸した金を返してくれない男に再びお金を貸している男がたくさんいたりする。個人のレベルでは許せる範囲でも、ビジネスや社会ではこの因果をあまり気にしない彼らの性質はボトルネックとして発展の妨げとなっているように思う。では我々はどうか?因果を求めるおかげで社会やビジネスでは成功してきた。でも個人のレベルでは因果にとらわれ過ぎてしまって、また過去にとらわれ個性が埋没してしまっている。特にこれは日本人に強い傾向のように感じる。

まさかものを乞うてきた人から食べ物を貰うなんて因果にがんじがらめに縛られている私にできるはずもなく、結局ありがたくお断りしてその場を去った。

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