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2014年1月19日日曜日

おじさんオールスターズ

ハラレで泊まっていた安宿へ別々に数人のおじさんがやってきた。皆独りでアフリカ各地を好きに旅している人たちだ。一人は中華系のマレー人で日本で働いていたこともあ

り、少し日本語が話せるおじさん。イギリスにて経営学を学んだ後、自分でいくつもの日本料理店を持って、成功し、今は隠居の身であるという。よく話す、気のいいおっち

ゃん風で、両津勘吉を外見、性格共に丸くしたような人だ。なるほど事業に成功する人のパワーとはこういうものか、と思わせるような勢いがある。いろいろ気を使って若い

私にあれこれしてくれるのも、日本のおっちゃんみたいで何だか親しみがわく。飲食店のオーナーということもあり、彼の作るアジアンチキンライスは旨かった。貧乏生活が

染み付いてしまっている私には出汁に使った野菜を捨ててしまっているのが些か勿体なく見えてしまったが。。。次はエストニア人。エストニアってどこだ?ってなるほど出

会うことがない国の旅人。日本でも見たことはなかったし、旅先で出会ったこともない。環境保全商品の商売をしているという。ロシア語っぽくボソボソっと細切れに出す英

語にどこか控えめなものを感じ、彼と二人で話す時は小川が断続的にちょろちょろと音を出すように静かなものとなる。先のマレー人とは対照的だ。更にドイツ人の公定弁護

士。一人で淡々と旅を楽しむタイプで、あまり人とは群れず人間模様を観察するのが好きなようだった。以上、皆50代で仕事に余裕が出てきた、もしくはすでに引退したおじ

さんたちである。そこに20代(もうすぐこの言葉ともおさらば)の私とデンマーク人の医者で、ハラレの病院で医学研究に携わり技術供与をしている、おじさんと若人の狭間

のような人が加わって、レゲエのライブが聞けるという夜の酒場に繰り出すことになった。音楽に疎い私はレゲエというジャンルが、名前は聞いたことはあってもどんなもの

か、わからなかったが、面白そうだったので参加することにした。

安宿から真っ暗でところどころ穴の開いた道を歩きながら、時々会話を挟んで歩く。喋り始めはもっぱらマレーおじさんだが。店の周辺にはショッピングモールがあり、夜で

も明るい。店の中は柔らかい光が満ちまさしくバーといった風だ。カウンターを囲んでスツールが並び、その外側にはソファーなどが置かれて、すでに若い男女が話に花を咲

かせビールをひっかけていた。さすがジンバブエ。店内にいるのは皆ブラックアフリカンだ。非黒人は我々おじさんオールスターズだけだ。これが南アやナミビアとは異なる

。南アやナミビアでこのくらいのレベルの店だと、白人の姿が目に付く。ジンバブエのビールZambezi Lagerを注文し、ライブがいつ始まるのか聞くと、今日はライブじゃな

く、DJが音楽を流すだけだという。マレーおじさんは昼間店の人にレゲエライブがあると聞いていたので、少し不満そうだったが、さすがはアフリカを旅慣れているおじさん

、すぐに収まった。そう、ここアフリカでは予定は未定なのだ。

DJもいつ音楽を流すのかわからないうちに、ドイツおじさんとエストニアおじさんはカウンターに残り人間観察をしながら静かに飲み始め、マレーおじさんとデンマークドク

ター、私はテラスで夜風にあたりながら呑んだ。その国の人にその国のことを聞くのも楽しいが、旅人やそこで働く人、つまりは外国人にその国をどう見ているのかを聞くの

も大変興味深い。デンマークドクターはジンバブエの医療チームと共に仕事をしているが、彼らは大変勉強熱心で質問がすごいと言う。ただし病院の資金不足で医療環境があ

まりよくないといっていた。また医療の知識はあっても、統計を取ってそれを医療政策にいかしたりする、手法が身に付いておらず、彼はそこに焦点を当てたサポートをして

いた。

マレーおじさんはいくつものアフリカ諸国を回っており、色々なことを教えてくれた。その中でも南アについて彼の言ったことが私が感じていたことと似たものだったのでこ

こに書たい。彼はアパルトヘイトは緩やかに続いていると言う。私もアパルトヘイトという言葉は適切でないにしろ、アパルトヘイト時代の習慣や構造が現在も色濃く残って

いると感じることがあった。例えば、今でも成功している農場の多くが白人がオーナーで、そのもとで安い賃金で黒人が働くという構造があらゆる場所で見えた。もちろん黒

人オーナーのワイナリーが成功しているという例もあるのはあるが例外中の例外に見える。また宿について。南アで働いていた頃に、いくつかの宿を利用したが、そのどれも

が白人経営のものだった。そしてその白人のもとで多数の黒人メイドやボーイが働くという構造。企業もそういう構造が主流のように感じた。ただし黒人優遇政策などにより

、公的機関はその逆。トップや上層はほとんど黒人で、白人は一段下にいる。また、地方では特にそうだが、白人黒人が仕事上では一緒にいても趣味や娯楽で時間をともにし

ているのをほとんど見かけなかった。明らかに彼らの間には未だに見えない壁があるのを感じていた。南アの観光地であるグラスコップで宿を営んでいたジンバブエ人から興

味深い話を聞いたこともある。「南アの黒人は白人に遠慮している。黒人が宿の談話室で賑やかに話していて、そこに白人グループがやってきてみな、黒人は散るようにいな

くなるよ」
南アは1994年の民主化以来レインボーネーションを謳っている。色んな部族や人種がともに共存し、栄えていこうという願いを込めたものだろうが、まだまだ多くの面で虹の

各色がくっきりと分かれて、ただ国土を共有しているにとどまっていることを強く感じる。マンデラさんは本当に偉大な選択をしたと思うし、その思想を実行した南アの人々

は尊敬に値する。しかし、まだ根っこのどこかにアパルトヘイト時代の膿が残っているように思えてならない。
マンデラというアイコンを生きた形で失った今、一人一人の国民が過去を学んで未来を作っていかねばならないだろう。日本もだ!と言われそうだが。ギャフン。

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