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2013年12月1日日曜日

神はさうのたまったのか?

今日は日曜日。
昨夜泊まった家のみんなも私の出発前に教会に出かけていった。
残っている子供たちに見送られて、美しく着飾った人々の歩く道をゆく。
4kmくらい行くとお世話になったおばちゃんが少しだけお洒落して歩いていた。
朝、見送ってくれた子供たちに教わっていた「チョクウェ!」で感謝を伝えた。
そしたら優しく笑って手を振ってくれた。

どんよりとした雲の下、唯一の舗装道路を行き交う人々。
その多くは色とりどりに着飾っているので教会に行く人々であろう。
走りながら美声を聞いた。
涼しい空気に沁み渡るようだ。
この辺りは絶叫系の教会ではないので、優しい歌声にホッとする。
旅始まって以来の雨中走行となった。
路面が潤い、雲の模様がダークグレーの路面に映っている。
その模様を自転車のタイヤが切って走る。
水飛沫が足に掛かり気持ちよい。

清々しい朝に気持ちよく挨拶ができるという喜び。
人がいるという安心感。
それだけで雨というマイナス要素を吹きとばしてくれる。

道脇にはロバもいる。
雨が降っているというのに何かを考えているフリをしながら突っ立っている。
だからウスノロと呼ばれてしまうんだ。
それにしても意外とかわいい顔してるな、お前。
私はそんなお前が好きだよ。

道の両脇から始終子供の声が飛んでくる。
単に「お金ちょうだい」から、あいさつしてから「お金ちょうだい」、「お菓子ちょうだい」。
挨拶だけする子供。
なんだか嬉しくなってしまったのは、
遠くから大声で私を呼び、大腕を振って、私が気付いて手を振り返すと、
まるでボールのように飛び跳ねて転がって喜んでいた子供の姿だ。
この差はどうして生まれるのだろう。
私と話すとき「sir」を付けて丁寧に話す子供がいる村もあれば、
出合い頭に「金くりゃぁあー!」なんてのもある。
普段見慣れぬ人を見たら「お金くれ」ってのは、以前そういうことをやって成功した、
いくらかの金を手の入れた者がいるということかもしれない。
誰があげたのだろう。迷惑なもんだ。

一番驚いたのはサンデースクール(子供を対象にした聖書を読んだりする教室)の先生のような女性に、
「お菓子はないの?」と聞かれたことだ。
スクールで子供たちが集まっていたので自転車で走りながら眺めていると、先生が気付いて子供らに私を呼ぶようにけしかけていた。
すると子供たちは行儀よく先生のいうことを聞いて私を呼ぶではないか。
呼ばれたら行きますよ。
そして子供たちがお菓子を求め、先生の口から出たのが先の言葉。
本当にこんな教育でいいのだろうか?
神はそのように教えているのか。
教会に属していると慈悲とやらで色々なものを貰えるのだろう。
慈善とか慈悲とか美しい言葉だけど、一歩間違えると依存心の強い人間も作り出してしまう。
もしかしたら以前自転車に乗ったサンタがここを通って、子供たちのお菓子を配ったのかもしれない。
だから私を見てサンタクロースが来たと思ったのかもなぁ。なんて考えていた。

魚のフライやファットケーキ、果物を売る露店が目につき停まった。
子供とおばちゃんが並んで売っている。
魚20円、ファットケーキ10円と言われ、一つずつ買って食べる。
魚が思っていたのよりもうまい。
日本で食べたら骨が歯茎に刺さるアジなのだがここはアフリカだ。
骨?それは少し硬い繊維に過ぎない。
旨かったのでもう一つ買おうとすると少年がやってきて、
「魚は一個10円だからもう一個食べていいんだよ」と教えてくれた。
私は意味がよくわからず呆然としていると、魚を売っている女がバツの悪そうな顔をしている。
それで私にもようやく状況が飲み込めた。
魚屋の女が値段を偽って私に売ったのだ。
「この野郎、騙したな」と悪戯っぽくいうと、渋々ともう一つ魚を渡してくれた。

今教えてくれたということは、少年の中にも葛藤があったのかもしれない。
一度しか来ないであろう見知らぬ外国人の肩を持つより、いつも一緒に物を売っている仲間の肩を持った方が彼にとってもいいに違いない。
それでも私に真実を教えてくれた。
嬉しかった。
彼の売っていたジュースを凍らせただけのアイスを買って、お釣りをあげた。
「君の正しい行いに、ありがとう」と言うと、
「God bless you」と返してくれた。
何が正しいかなんて私にはわからない。
でも私が住みたい世界にすべくできることをやる。
正直者が損をする社会には住みたくない。
見知らぬ人をだますような人間がのさばる世界には住みたくない。
私ができるのはただそれだけ。

行動中に飲む水ボトルが空になっていたのでどこかで補給しようと村に寄った。
大樹が作る大きな木陰で、大勢の女と子供達がエウニと呼ばれる野生の果物を売っている。
ソフトボール大の黄色い殻に包まれた果物で、殻の中に茶色いゼリー状の果実が入っている。
味パッションフルーツのような味で、とても濃くて目が覚める味だ。
唯一困った点は種が大きく実離れが極めて悪いことだ。
自転車を降りて押しながら近寄ると、もうそれはそれはすごい人だかりができた。
みんなエウニを持って、いくらだ、私のを買え、と押しかけてくる。
ところが困ったことに、どのそれも同じものだし、値段も変わらない。
買う方にとってはどれも同じものなので正直どれでもいい。
適当に選んで買い、もう十分と!と人だかりを振り払って少し離れた木陰に逃げた。
売る側に個性がない。
アフリカでは露店もそうだ。
同じように傾いた小屋で同じように退屈そうに座ったおばさんが同じものを売っていることが多い。
どうして個性を出して買ってもらおうと考えないのだろうか。
そういうところが商売下手で、美味しい部分をみんな中国人やインド人に持ってかれてしまうのではないだろうか。

私が砂地に座ってエウニの実を口の中で転がしていると(何せ実離れが悪いので口が疲れる)、目の前に子供が4-5人やってきて寝転がってエウニを食べて始めた。
ある男の子と目が合うと、眉毛をクイッと上げてお互い何かを確認し合ったようにしてから、またエウニの果実を頬張る。
私の一挙手一投足が気になるのだ。
いつの間にやら周りには子供が二十人くらいやってきていた。
桃色のフリルの付いたシャツ、首には黒いスカーフを巻き、白のスカートを揺らして一人の中学生くらいの女の子がやってきて、
「これ、持って行って。あなたのだから」と一つエウニを差し出してきた。
くれるの!!と驚いていると、彼女はどうやら私がお釣りを取っていないことに気付いて返しに来たようだった。
一個5円と言われて10円払い、あまりの人の多さに釣りをもらうのを忘れていたのだ。
私にとっては5円を貰うより、早くあの人だかりから逃げ去ることの方が大事だったようだが、
エウニを一つ5円で売っている彼女にとっては意外と大きかったのかもしれない。
そういう律儀な人はそれだけで美しく見える。
木々の葉が作る憂鬱そうな影も桃色のシャツの上では楽しそうに揺れていた。
他にもエウニで汚れた手に「洗いなよ」と言って水をかけてくれる女の子がいたり、
この村では何かを求められる空気がまったくなかった。
何かをあげられない状況において、何かを求められている空気にいるのはとても疲れる。
気にしなければいいのだろうが、相手が人である以上気にしないわけにはいかない。
まだ旅慣れていないからかもしれない。
だからこの「何も求めない空気」がとても心地よく感じられた。
しかしこのエウニ何かに加工できないものか?
これだけ売っている人がいるのに買いに停まるのは稀に通り過ぎる車の客だけだ。







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