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2013年11月30日土曜日

村の水汲み

ナミビアの北東部は不思議な形をしている。
まるでビクトリアの滝が欲しくて手を伸ばしているようだ。
それでも結局ビクトリアの滝までは届かず、その手前でザンビア、ジンバブエ、ボツワナと接している。
この地域はアンゴラとの戦争時に地雷が使われ、現在も埋まっている場所があるという。

グルートフォンテイン(Grootfontein)から北上しルンドゥ(Rundu)に入り、そこからアンゴラとボツワナにはさまれたこの細い回廊を東進する。
ツメブ(Tsumeb)から雲が多くなり始め、グルートフォンテイン以降ずっと曇りで、とうとうルンドゥの手前で雨にやられた。
この辺りから緑も多くなり、雨が比較的多い地域になっていく。


ようやく乾燥とはおさらばなわけだ。
ちょうどこれから雨季になるということもある。
今までが乾燥しすぎていたので、湿った空気が嬉しい。
唇は荒れないし、指先も潤っている。

グルートフォンテインからルンドゥまでは町はなく、小さな村がいくつか点々とあるだけだ。
村があるので水は手に入る。
それだけでも気持ち的にすごく楽だ。
だいたい17時くらいに疲れが出てくるので、行動を切り上げる。
丁度その時間になると村から灯油タンクやバケツのようなものを頭にのせた女性や子供が出てくる。


水を汲みに行くのだ。
共用の蛇口は村にいくつもあるわけではないので、こうして水汲みを毎日行うのである。
泊めてもらった村人の家は歩いて蛇口から10分程の距離にあった。


私が村で「テントを張ってもいいか」と交渉していると、どこからともなく容れ物を頭に乗せて、静かに会話しながらみな同じ方向へ収束していく。
なんだか面白そうだ、テントを張ってから家の人に付いていった。
共同の水汲み場にはたくさんの女性と子供たちがいた。



私も行動中の水ボトルが空だったので少し貰った。
この辺りから少し水道水(井戸からポンプで汲み上げている)が塩類を含むようになる。
まだここのはさほど強くはなかった。
暫くしてタンクに溜まった水がなくなり、今日の配水は終わった。
管理している若い男に対して、一人だけブツブツと文句を垂れていたが、他は概して「しょうがないかぁ」と諦めて空のポリタンクを手に頭に帰っていった。
空のタンクを持った6、7歳の子供たちが楽しそうに帰っていく夕暮れであった。
水を手に入れた人々も満足そうにゆっくりと歩いて帰っていった。


私も自転車で来ていたので一つ大きいのを運ぼうとしたが大変重い。
片手で持ち、それをサドルからハンドルに伸びるバーに乗せて走るのだが難しい。


村に戻って夕飯の支度をしていると、10mほど離れた柵の向こうから子供達が顏をを覗かせている。

その後村の男の子が私に興味をもって、やってきた。
辺りはだいぶ暗くなっており、私には彼の顔がはっきりと見えなかった。
日本人は中国人にそっくりだね、と彼に私は見えていたようだ。
その後、日本やナミビアの話、彼がなりたいパイロットの話をした。
いつか彼も私のように自転車で旅をしたいと言っていた。
10年後くらいにはいろんなアフリカ人が自分の住む大陸を自由に行き来できるようになっているのだろうか。
雲を避けるように惑星が西の空に輝いていた。

朝目覚めて朝飯を取っていると、体から出たいものの声が尻の方から聞こえてきた。
家主のおあばちゃんにトイレ貸して!と聞くと、
道を挟んだ林の方を指さしている。
そうか、なんとも大きなトイレじゃないか!
道行く車を茂みの中から見送りながらする朝の一仕事は気持ちよい。

朝飯を食いながら準備していると子供達が興味津々で覗き込んできた。
何してるの!?


これまでの村で必ず何かをねだられてきたので、この子らにも何かねだられるのではないかとハラハラしていたが、
何も求めてこず気持ちよく私を見送ってくれた。

2013年11月26日火曜日

ごみ捨て場の住人たち

愛すべきサッキーが私に提案してくれたことがある。
ごみ捨て場に行ってみろ、と。
そこには人が住んでおり、ごみを食って暮らしている、サルも時々やってきて一緒にごみを食っている、と。
まるで彼は私が旅で何を求めているのかを理解しているようだった。

彼に提案されてから実際に行くまでには3日あり、様々な想いがよぎっては去って言った。
趣味は悪いかもしれないが、彼らがどのように暮らしているのかを見てみたいという気持ちはとても強かった。
しかし、自分のような別の世界に住んでいるような人間が見ることで、彼らは不快な思いをするのではないか。
彼らと対峙すれば、どう転んだって「持てる者」ー「持たざる者」の関係が生じ、何かを要求されるのではないか、と思い、足がなかなか動かなかったのだ。
さらにその場が持つ独特な空気に飲み込まれてしまうのではないかという不安もあった。
そしてようやく三日後に私の中で見たいという気持ちが勝り、行く決心がついた。

サッキーに教えてもらった通りの方角に歩いていく。
パステルカラーに塗られた家が並ぶ住宅街を抜けると給水塔が現れた。
警備員がいるが、水が駄々漏れしおり、そこだけ緑が豊かになっている。
給水塔の向こうは森が広がっているが、芽吹いておらず冬の様相だ。
警備員にごみ捨て場への行き方を尋ねると、連れていってやると森の中を先導してくれた。
人が通ってできたいく筋かの径が、葉のない透けた森の中を不規則に通っていた。
警備員は黙々とその径を辿り、私も後を付いていく。
15分位歩いたろうか、警備員は警備そっちのけでいいのだろうか。
裸の森に人が住んでいる気配が出てきた。
毛布やごみが散らばっている。
ごみの密度が高い方へ高い方へ行くと、果たして5メートルほどのごみの壁が立ちはだかったではないか。
裸の木々には白いビニールの花が咲いている。


風で舞ったものが木々の枝に捉えられたのだ。
ごみの壁を左に巻いて向こう側へ行くと何軒かの家が現れた。
道に3人の若い男が座って話し込んでいる。
挨拶をするが軽い返事があるのみで、怪訝な目で私を見ている。
ごみを運んできたトラックとそれを追う人も遠くに見えた。

警備員も暫く興味深そうに見ていたが、「そんじゃ、俺は行くでね」と言って来た道を帰っていった。
警備員が消えると、さっきの若い男が鉈を持ってゴミの山を登って近づいてくるではないかぁ。
あぁ、ここがやられる場所か、と手にしたカメラをしまいながらスタスタと速足で鉈男と反対の方へ歩いた。
それからおばちゃんたちのいる、安全そうな方へ行った。
後でこの鉈男とは会話もしているのでで、おそらく私を襲おうとしたのではなかったのだろう。
でも怖かったよ、兄さん。
自分が鉈を持っているということを考えて行動してくれよ。

タイヤを削っている男(タイヤは強い繊維が入っているので色々なものに使える、タイヤの繊維を売っている露店があるくらいだ)。


ごみ山から何かを集めてビニールに詰めている女。
ごみを運ぶトラック。
それを追う若い人々。


つむじ風に空高く舞うビニール。


石を詰めた土嚢を積んで建てられた家。




その家の前を掃除する小学生くらいの兄と幼い妹。


木陰で話し込んでいる女たち。
収穫物をビニールにたくさん入れて森の小道を帰っていく男。


意外にも平和な空気がそこにはあった。


ここに来るまではごみ捨て場に住んでいるくらいだから荒んだ人々なのだろう、と思っていた。
ところが違った。

トラックからゴミが降ろされて、人が群がっている場所に向かった。


初め変な来客に警戒していたので遠巻きに見ていた。
近くに8、9歳くらいの男の子が本を漁っていたので見ていると、
「オジサンも本を探しに来たの?」と聞かれた。
うん?そう見えるかい?
彼らは教科書を探しに来ていたのだ。
これは理科だぞ、とか、算数ない?とか話しながら3人で仲良くやっている。
そうここには争いはない。
収穫物と共に



少し遠くで食べ物を漁っている大人たちも何か話しながら、時には笑いながらやっている。
その風景はもはやごみを漁っているようには見えなかった。
買い物をしている。
新しいものではないし、欲しいものが必ず手に入るわけでもない。
そしてレジでお金を払う必要はない。

少し私の存在に違和感がなくなってきたので、
食べ物を漁っている、いわば核心部に行ってみた。
子供達が写真を撮れ、撮れと言っている。
それでも女性たちは恥ずかしいからやめとくれ、といった様子で顔を隠す。


ゴミと言っても多様で、場所によって異臭を放ってハエを遊ばせている場所もあれば、段ボールや紙類だけで長時間いても嫌にならないような場所もある。
比較的きれいな場所に女性は陣取って座り、採集している。
子供はジュースのペットボトルを開けて、中に残った僅かな蜜を蓋をコップ代わりにしてすすっている。
その様がお猪口で酒を飲んでいるみたいで面白かった。
男はフラッとやってきて、えっ、それ大丈夫か!?というような残飯を手ですくって食べていた。
十代の若い女性は熟れに熟れたトマトを手に持って齧っていた。
離れたところではお爺さんが缶を集めていた。
これをどっかに持って行ってお金にするのだと身振り手振りで教えてくれた。
カメラを向けると嬉しそうに缶を見せてくれた。


ここで一番驚いたのはお金を要求してくる大人がいなかったことだ。
みな自分の生活を独力で営もうという気概持っていた。
金銭的に貧しいことが他人への依存を生むわけではない。
さらに意外にも彼らの生活に笑いがあったこと。
私のカメラから逃げるのでさえ楽しそうであった。
ごみ山という要素がなければ、それは何ら変哲もない普通の生活と言っていいものだった。
それにごみ山では彼らを養うだけの十分な食べ物が手に入っているようだった。
日本のごみ山は恥ずかしいことであるが、彼らにとっては宝の山と映るだろう。

見ておいてよかった。

2013年11月25日月曜日

協力隊員の相棒

ツメブ(Tsumeb)にも隊員時代の知り合いの紹介で、現職の協力隊員を紹介してもらっていた。
やはりその国のこと、町のことをよく知っているのは現在そこで働いている方々に勝る者はいない。
彼らが見ている日々の風景は私が見たい正にそのものである場合が多いので、彼らが持っている情報は大変有益だ。

ツメブの隊員は彼の前任者が大変優秀な人だったので、期待されることで苦労しているようだった。
また、学校がとてもしっかりしており、あまり自分のいる意味を感じられないとも漏らしていた。
パソコンを教える先生がいないからマンパワーとして必要とされているだけだと。
勿論パソコンを教えられるレベルの人がナミビアにいないということではなく、パソコンを教えられる人はパソコンを使えるので先生という職業ではなく、もっと給料の良い普通の企業で働いているという。
制度の問題なのだ。
もしかしたらJICAが隊員を派遣していることが彼らの制度を考え直すチャンスを奪っていることもあるかもしれない。
この辺りはしっかり両者で確認し合う必要があるだろう。

私も隊員時代には自分がそこで働いているということでで同僚を堕落させてしまったところがあった。
生徒を取るか、同僚を取るかの板挟みだった事を思い出した。
結局は生徒の方を取り、彼が来ない時は代わりに教えていた。


友人パセリ:ちょっとお化けのQちゃんっぽい
多くの場合、隊員は一人や二人くらい信頼のおける現地の相棒を持っているものである。
私の相棒は同僚のパセリだった。

相棒は現地の様々なことを教えてくれるのはもちろん、現地の人と繋げてくれるとても重要な役割をも持っている。
ツメブの隊員も例にもれず相棒がいた。
サッキーという小柄で陽気な男で、下ネタを食って生きているような奴だった。
男の相棒はたいていそんなものかもしれない。

彼は孤児院の運転士として働いており、生活はなかなか倹しい。
朝にファットケーキと呼ばれるサーターアンダーギーみたいなものを二つ食べ、夜までは水しか飲まないという。
しかも夜帰りが遅いと夕飯を作ってくれている大家さんが寝てしまっているので、夕飯も抜きになる。
やっぱり、下ネタを食って生きているのだ。
また彼の住んでいるところが質素だ。
木を組んで出来た掘立て小屋で、かつて物置として大家が使っていたところを頼んで住まわせてもらっている。
木の組み方が甘く隙間だらけで、意味はないが外を覗ける。
四畳もない。ベッドが一つ置いてあり、ベッドに座って足を置くスペースが少しと、生活用品が置いてある棚が一つ。
以上。これで月に5000円はナミビアでは少し高いと思ったが、サッキーはしょうがないと言っていた。

そんな彼に一食下ネタをおごった。
「こんな造りじゃ彼女呼んで夜を楽しんだら、確実に崩壊するねw」
彼は自分の粗末な境遇を笑い飛ばすかのように笑い、満腹になった。に違いない。
勿論電気はなく、夜は携帯電話についているライトで生活だ。
働いて給料もらっているのになぜ?と聞いてみると遠くに住んでいる家族に仕送りしているという。
下ネタを食って生きてはいるが、根はまじめなのだ。

そんなところにツメブの隊員は信頼を置いているのかもしれない。
一緒に酒を飲んで現地のイロハを学んでいるという。
勿論おごることが殆どだというが、お金がある時は逆におごってくれるという。
二人を見ているとパセリに会いたくなってきた。

そしてサッキーと隊員、私の三人はロケーションに連れ立った。
ナミビアでは多くの町がロケーションとタウンに分かれて存在している。
ロケーションというのは低所得層が暮らす、つまりそれは自然とアフリカ系住民が多く暮らす場所となり、
ごみが散らばっていて汚く、建っている家も美しくはない。時にはスラム化しており、治安は比較的悪い。
一方のタウンは富裕層が住み色々なものが整備され、店なども多く整然としている。
案内所などの観光施設もこちらに付随する。
だからアフリカの場合、観光で見える場所は多くの住民の生活とは遠いところのものであることが多い。
アウスや南アフリカの西海岸の町で見てきた「道路を挟んで向こう側は別世界」も同じようなものだった。
アパルトヘイトがおわり、居住地を定めた法律や制度は消えても、長い間に築き上げられた構造的な習慣はなかなか消えずに残っている。

スーパーマーケットの裏手辺りからロケーションが始まる。
他のロケーションと違わず、相変わらず混みいっており、そこかしこに粗いエネルギーが満ちている。

白人はめったにやってこないので、肌の色が幾分薄い我々をその鋭い視線で八方から刺してくる。
雑な作りの木組みの屋台ではどこも同じようなものが売られており、どの店主も商売への熱意が薄い。
ガラは悪いが陽気な若者が闊歩し、犬や子供が低い場所を動き回っている。
狭い通りには飲み屋のようなたまり場があり、老若男女が車座になってビールや地酒を飲み回している。
お金を要求されるが比較的淡白でしつこくはない。

そんな喧騒の中を三人で歩いていくと、サッキーの知り合いがやっている酒場に出た。
酒場といっても、閉じてる空間ではなく、単に酒が飲め、適当に網の上に長い間転がって干からびた焼肉が食えるというだけである。
丁度焼けた肉を女の子がナイフで一口大に切ってくれる。
一口10円くらい。硬くて食い応えのある一品だ。

その後サッキーの大家が肉を提供すれば夕飯を作ってくれるというので、そこらで肉を買い持ち帰った。
作っているのを待っていると、どこからか肉の匂いを嗅ぎつけて人が集まってきた。
こういう能力は本当に高い。
持てるものからはとことん取ろうという根性。
しかも誰なのかさっぱりわからない。自己紹介もない。
サッキーもよくわからないという。
これがなかなか傲慢なおばさんで、ビールはないの?と聞いてくる。
「あぁ、ビールが飲みたい」と当てつけるように言ってくるので、
「ふーん、そうですか、今日は暑いですからね」と適当に流していたが、あまりにしつこかったのでその場を離れた。

しばらくシャビーン(薄汚れた酒場)でビールを飲んで帰るとさっきの誰だかわからないおばさんが、
「あんたら自分達だけ飲んでずるいわねぇ、どうして買ってこないわけ?」と絡んでくる。
そもそも誰なのかもわからない傲慢なおばさんにビールをおごることもないので、
「いやぁ、ビール美味しかったですよ」と意地悪を吐いてやった。
そうしてしばらくしたら、自分で買ってきたのかビールを持っていた。
やればできるじゃないか。それでいい。

大家が作ってくれたのはシチューとマハング(稗みたいなのを練ったもので蕎麦掻に似ている)だった。
なかなか味付が濃く、マハングが進んだ。
私がサッキーにマハングおかわりできるか?と聞くと彼は台所へ行こうとし、途中で引き返してきた。
そうした態度から、大家に対する遠慮が窺える。
そう彼の言動には慎みを感じるのだ。
彼のそういうところが私に何か安心させるものを与えていた。
そして彼は自分のマハングを指し、「俺のを食え」と言う。
私はただでさえろくに飯を食っていない彼から取るのは悪いと思いつつも、
旅を続ける中で身に付いてしまった「申し出を断らない習性」から「いいのか?」と聞いていた。
「いいんだ、食え」と差し出してくれた。
そういうわけで私はサッキーが大好きになった。

それを見ていた隊員は私にマハングを奪われたサッキーを同情して肉を分けていた。
ふむ、旅をしていく中で私もずいぶん堕ちてきたではないか。
それでいい。堕ちて甘えることで見えることもあるはずだ。

沢木耕太郎曰く、旅人とは人の善意を食って生きている、と。
まさしくそうだと思う。
そして善意を有難く食えているうちは正常なのだと。
私は日々人の善意を食って生きているのだ。
人生を旅になぞらえることができるのであれば、人生においても人は人の善意を食って生きていると言えるだろう。
しかし、日々の暮らしではあまりそういう風に考えることはない。
定住しているおかげでwin-winの関係が前提になっているからだろうか。
一期一会の旅であるからこそ善意を食うという行為が鮮明に浮かび上がってくる。

夢を食う動物が獏で、
下ネタを食うのがサッキー、
そして善意を食うのが旅人であり根のない者だ。












2013年11月23日土曜日

ヒンバの村へ
























オプヲ(Opuwo)の町に着いたのは日が傾きはじめ、幾分か景色が黄ばみ始めたころだった。
町を囲む丘にはモパニの樹の若い緑が点々と張り付いている。
時折小さな竜巻が生じ、黄色い砂を細く舞い上げている。
聞いていた通り、上半身裸で腰巻をし、肌が赤褐色の女性があちこちにいる。
(この赤褐色の塗り物はオチゼと呼ばれ、粘土とバターに灰を混ぜたもので、乾燥や日差しから肌を守るために付けているという。)
そしてその半分くらいが、動物の毛皮で包んだ赤ん坊を背負っている。
スーパーから出てきたり、ATMに並んだり。
また、木陰で休んでいる者もいれば、土産物を売ったり、シャビーンと呼ばれる薄汚い酒場で酒を飲んでいる者もいる。

普段の生活の中に、たいていの世界では御隠れになっている「おっぱい」が登場することで私の日常が壊されはしないかと、心配していたが、特に心配したことは起こらなかった。


なんてことはない、普段隠れているから神秘的なのだ。
もしあなたの体の中で神秘的な部分を作りたければ、普段そこを特別な布で隠しておけば、みんな見たくて見たくてしょうがなくなるだろう。
そしてその部分を人前に晒すことを恥ずかしいと感じる様になるに違いない。
余談だが、私は小学生のころから眼鏡をかけているが、人前で眼鏡を外すのがなんだか恥ずかしい。
透明なものであっても「覆っている」ということで何かしら特別な感情が生まれる。

このオプヲにも知り合いを頼って町で働いている人を紹介してもらっていた。
その彼が仕事を終えやってきた。
日本人でありながらもどことなくこの町の雰囲気に馴染んでいるように見えた。
勿論服は着ていた。
少し感じの良いレストランでナミビアのビールWindhoekをひっかけながら、仕事の話や町の話を聞く。
彼の仕事はこの町の役所で都市計画を推進することだった。
オプヲの町は辺りを丘に囲まれているので日の暮れが少し早い。
ビールを二杯飲んだところで暗くなってきたので彼の家に向かった。
途中牛たちが道を横切り、子供たちが空手の真似をしてちょっかいを出してくる。
と思ったら、日本の彼が先生として教えている子供たちだったようだ。
オプヲの夕暮れはピンクで幻想的だった。


彼の家は図面を書く時にも利用しているので、たくさんのオプヲの町開発の青写真が散らばっていた。
その図面を見ながら彼のオプヲに寄せる思いを聞き、これからの話をするのは大変楽しかった。
また、日本でも建築関係の仕事をしており、神社や寺の改築に携わったこともあり、屋根の構造などの面白さについて語ってくれた。
私が今まで出会ったことのない興味深い話がたくさん聞け、大変有意義な時間を過ごすことができた。


翌日は調子のいいガイドに付き添ってもらってヒンバの村に行った。
モーセとかいうガイドで、彼の母親がヒンバ族出身でその村に招待してくれるというのだ。
父親はドイツ人だと言っていた。
ドイツ人の血が入っているからか、身長が高く、顔も大きく長い。
少しいい加減なところがあるのだが、性格がなかなかお茶目で憎めない。

オプヲの町はずれから車に乗り、未舗装の道をガタガタと揺られながら30分ほど行く。
ヒンバの村としては比較的文明に近い場所にある部類だろう。
村へはモーセの勧めで、パップの粉、砂糖、油、パン、菓子などの土産を持っていった。

村は人の背丈より少し高いくらいの木組みの柵で囲われており、一か所だけ入り口として開いている。
そしてその柵の内側にロンダヴェル(円筒形の家)が7~8軒ほど並んでいる。
家々の間に日陰を作る目的で藁を葺いた木組み四阿が3つあった。
その日陰では火が焚かれ、何人かが上半身裸で昼飯の準備をしていた。
男性は上半身も何か纏っていた。
それら家々の内側にモパニの樹が点々と生え、その内側つまり村の中心に家畜を入れておく囲いがある。
動物は雨の少ない今の時期は別のところへ行っているという話だった。

お土産を渡し、モーセが私を紹介してくれた。極めて簡単に。
そして今夜泊まるロンダヴェルに娘たちが案内してくれた。
木枠で円筒形を作りその内側だけに牛糞を混ぜた泥を塗って固めてあるものだった。


広さは四畳半よりも少し小さいくらいだろうか。
床は泥で固められており、一か所車のタイヤのホイールが埋まっていた。
家の中で火を使うときの場所のようだ。
このロンダヴェルは普段は娘たちが寝ているところのようで、彼女たちの頭飾りや、腰巻などの生活用品が壁に掛かっている。


屋根は木組みに藁が葺いてあり、入り口は頭を下げないとは入れないくらい低い。
この入口の狭さがなんとなく中の空間を秘密めいたものにしており、茶室を彷彿させる。
泥壁のせいか中に入ると外の世界から切り離されたように静かだった。
ここでもお茶目なモーセは娘たちにちょっかいを出し、じゃれ合う。


彼の姉の娘なので姪ということだろう。
たまに娘が愛想を尽かし本気で嫌がっているのは見ている方は面白い。

四阿に戻るとすでに昼飯の用意ができていた。
パップにおそらく鶏肉と思われるシチュー、それからカボチャの葉のクタクタ煮。
男と女が分かれて食べていた。
私は息子とモーセと一緒に一つの皿を分け合って食べる。
しかしパップはボールにてんこ盛りになっているので量は多い。
手が三方より伸びてきてパップをちぎり、シチューに付けてそれぞれの口の中へ消えていく。


昼飯を食べ終えると、モーセが近くのシャビーン(薄汚れた酒場)に連れていってくれた。
近くと言ってもほとんど村の裏側と言ってもいいくらいの距離だ。
村を囲う柵の隙間から出て、2mほどのモパニが生い茂る林を行く。
新緑が積雲と筋雲が混ざる青空に映えている。
人の声がしてきたと思ったらビールの瓶が山のように捨ててある場所へ着いた。
なんだか不完全な建物に見える、いや不完全という美を追求した建物がいくつか建っていた。


6畳くらいの日陰を有する店では男たちが10人くらい集まって単純なゲームをやっていた。


じゃんけんに匹敵するくらいの単純なゲームだ。
それでも男たちは声を張り上げ、盛り上がっている。
日本でもAKBやらなんやらがじゃんけんしてギャラリーが盛り上がっているのとはちょっと違う。
ギャラリーではなく、本人たちが盛り上がっているのだ。
モーセもそれを見て血が騒いでしまったようで、私のガイドそっちのけでゲームに参加していた。
子供たちはその大人たちの喧騒を縫うように存在し、静かにしている。
ここでは子供たちの方が大人っぽい。

ガイドがいなくなってしまったので私は近くをブラブラとしていた。
そこらの店だか家だかの軒先で男たちがオツォンボと呼ばれる酒(mマハングに砂糖を加えたものを発酵させたもの)を飲んでいた。


男達は酔っているのでヒンバ語を解さない私にも容赦なくヒンバの言葉を唾とともに浴びせてくる。
私も適当に相槌を打っていると、そこには成立した会話があるように見えるから面白い。
酒のせいか少し目のがイッた男が私のカメラを察知し、俺を撮れと要求してくる。
鼻くそをほじるポーズをしている。

なんだ?、と思ったらスナッフという鼻煙草を吸っている仕草だった。
どうやらこの鼻煙草は彼らの誇りをのようだった。
子度を抱いた女性も加わり、その場はますます賑やかに。
たるんだTシャツの下から、まるで水風船でも出すかのように、ポロンとおっぱいを出して子供に吸わせている。


子供も子供で、騒いでいたかと思うと、おっぱいが顔の前に出た途端にまるでそれが絶対的に正しい事のように疑いもなく静かに吸い始める。
いや、絶対的に正しいのか。
そんな調子で彼らとオツォンボを共有しながらガイドが遊び飽きるのを待っていた。

村に戻ってしばらくすると、子供たちが水汲みから帰ってきたところだった。
カメラに気付いて走って駆け寄ってくる。
頭に水をのっけて。
それから色んな踊りや歌を披露してくれた。
そしてひとしきり撮り終わり、母の呼ぶ声が聞こえるとそれぞれの村の方へ散っていった。
子供たちは学校に行く義務があり、そして学校へは裸で行くことを許されていない。
そのため洋服をまとった子供たちも随分多かった。



















この日は雨雲と太陽のせめぎ合いがあったため、夕日がとても美しかった。


辺りはすっかり暗くなり、四阿で焚かれた火の色が蒼暗い中に浮かび上がってきていた。
火を囲んで母と娘が夕飯を作っている。
薪の爆ぜる音が際立つくらいの話し声で母と娘が会話している。
夕飯は干し肉のシチューとマハング(キビの粉を練ったものでパップより灰色で粉っぽさが残る)だった。

夕食を終えるとしばらくそれぞれ散って涼んでいた。
男達はシャビーンに出かけていった。
あてがわれたロンダヴェルに入って寝る準備をしていると、
思春期前の子供たちはいつも家の外にブランケットを敷いて寝るようで、しばらく子供たちの寝る前のささやきが闇に聞こえていた。
その様子に修学旅行の夜を思い出しながら私もいつしか眠りに落ちていた。

朝目が覚めるとすでに子供たちは起きていて、寝る前のように布団の中でささやき合っていた。


母はその子供たちを眺めながら扉の前にしゃがんで一の始まりを静かに迎えていた。
火は昨夜から燃え続けているようで、静かにその赤さを維持していた。
後で調べると、ヒンバの人々にとって火はとても大事なもののようで、先祖の火を絶やさずに守っていくという。
そして村の長がなくなると一度消して、再び親族から火分けしてもらい改めるのだという。
私のガイドは全くそういう大事な話をしないで、娘らにちょっかいばかりを出しているものだから困ったものだ。

やがて母と娘が朝飯の支度をゆっくりと始める。
昨晩以上に静かに、薪の爆ぜる音と同じくらいの頻度で、ポツリポツリと言葉を投げ合っている。
その合間を見て、母は縫物を、娘は何か考えながら携帯電話をいじっていた。
父は少し離れた朝日の当たるところでスナッフの原料を金属のパイプの中で擦り潰していた。


口数は少ないがモーセを通して、ナミビアの将来をどう見るかを聞いてきた。
ヒンバは男は日常の一切にはほとんど触れず、政治にその時間を費やすという。
国の単位が変わり、政治をあまり執れない現在においてはヒンバの男はシャビーンでひねもす社交して終わるにとどまっている。
母と娘、子供が家の一切を行っていた。
また男達は洋服を身に着けており、よりモダンな生活にをしているようだった。

モーセが用事があるというので、我々は朝飯を待たずして村を発った。
色々なものが外れて軽量化しているトヨタのトラックに乗って来た道を戻った。

今回訪れたのは近くに店や学校などがある村で、伝統的な暮らしを諦めざるをえない人達を見てきた。
恐らく今回出会った子供たちが大人になる頃は村から出て町で働いているだろう。洋服を着て。
携帯という便利なものは隔離された場所であれば、より一層浸透しやすく、ヒンバの村もその例外ではない。
母と娘も持っており、子供もゲーム用に持っていた。
また、ダム建設などの公共事業のために、場所を追われ、本来行っていた遊牧生活が立ち行かなくなったりもしている。
余りにも生活スタイルが違う人々が同じ国に住む難しさを見たような気がした。
彼らは今後、国の制度と伝統文化の狭間でずいぶん揺れていくに違いない。