ページ

2013年11月25日月曜日

協力隊員の相棒

ツメブ(Tsumeb)にも隊員時代の知り合いの紹介で、現職の協力隊員を紹介してもらっていた。
やはりその国のこと、町のことをよく知っているのは現在そこで働いている方々に勝る者はいない。
彼らが見ている日々の風景は私が見たい正にそのものである場合が多いので、彼らが持っている情報は大変有益だ。

ツメブの隊員は彼の前任者が大変優秀な人だったので、期待されることで苦労しているようだった。
また、学校がとてもしっかりしており、あまり自分のいる意味を感じられないとも漏らしていた。
パソコンを教える先生がいないからマンパワーとして必要とされているだけだと。
勿論パソコンを教えられるレベルの人がナミビアにいないということではなく、パソコンを教えられる人はパソコンを使えるので先生という職業ではなく、もっと給料の良い普通の企業で働いているという。
制度の問題なのだ。
もしかしたらJICAが隊員を派遣していることが彼らの制度を考え直すチャンスを奪っていることもあるかもしれない。
この辺りはしっかり両者で確認し合う必要があるだろう。

私も隊員時代には自分がそこで働いているということでで同僚を堕落させてしまったところがあった。
生徒を取るか、同僚を取るかの板挟みだった事を思い出した。
結局は生徒の方を取り、彼が来ない時は代わりに教えていた。


友人パセリ:ちょっとお化けのQちゃんっぽい
多くの場合、隊員は一人や二人くらい信頼のおける現地の相棒を持っているものである。
私の相棒は同僚のパセリだった。

相棒は現地の様々なことを教えてくれるのはもちろん、現地の人と繋げてくれるとても重要な役割をも持っている。
ツメブの隊員も例にもれず相棒がいた。
サッキーという小柄で陽気な男で、下ネタを食って生きているような奴だった。
男の相棒はたいていそんなものかもしれない。

彼は孤児院の運転士として働いており、生活はなかなか倹しい。
朝にファットケーキと呼ばれるサーターアンダーギーみたいなものを二つ食べ、夜までは水しか飲まないという。
しかも夜帰りが遅いと夕飯を作ってくれている大家さんが寝てしまっているので、夕飯も抜きになる。
やっぱり、下ネタを食って生きているのだ。
また彼の住んでいるところが質素だ。
木を組んで出来た掘立て小屋で、かつて物置として大家が使っていたところを頼んで住まわせてもらっている。
木の組み方が甘く隙間だらけで、意味はないが外を覗ける。
四畳もない。ベッドが一つ置いてあり、ベッドに座って足を置くスペースが少しと、生活用品が置いてある棚が一つ。
以上。これで月に5000円はナミビアでは少し高いと思ったが、サッキーはしょうがないと言っていた。

そんな彼に一食下ネタをおごった。
「こんな造りじゃ彼女呼んで夜を楽しんだら、確実に崩壊するねw」
彼は自分の粗末な境遇を笑い飛ばすかのように笑い、満腹になった。に違いない。
勿論電気はなく、夜は携帯電話についているライトで生活だ。
働いて給料もらっているのになぜ?と聞いてみると遠くに住んでいる家族に仕送りしているという。
下ネタを食って生きてはいるが、根はまじめなのだ。

そんなところにツメブの隊員は信頼を置いているのかもしれない。
一緒に酒を飲んで現地のイロハを学んでいるという。
勿論おごることが殆どだというが、お金がある時は逆におごってくれるという。
二人を見ているとパセリに会いたくなってきた。

そしてサッキーと隊員、私の三人はロケーションに連れ立った。
ナミビアでは多くの町がロケーションとタウンに分かれて存在している。
ロケーションというのは低所得層が暮らす、つまりそれは自然とアフリカ系住民が多く暮らす場所となり、
ごみが散らばっていて汚く、建っている家も美しくはない。時にはスラム化しており、治安は比較的悪い。
一方のタウンは富裕層が住み色々なものが整備され、店なども多く整然としている。
案内所などの観光施設もこちらに付随する。
だからアフリカの場合、観光で見える場所は多くの住民の生活とは遠いところのものであることが多い。
アウスや南アフリカの西海岸の町で見てきた「道路を挟んで向こう側は別世界」も同じようなものだった。
アパルトヘイトがおわり、居住地を定めた法律や制度は消えても、長い間に築き上げられた構造的な習慣はなかなか消えずに残っている。

スーパーマーケットの裏手辺りからロケーションが始まる。
他のロケーションと違わず、相変わらず混みいっており、そこかしこに粗いエネルギーが満ちている。

白人はめったにやってこないので、肌の色が幾分薄い我々をその鋭い視線で八方から刺してくる。
雑な作りの木組みの屋台ではどこも同じようなものが売られており、どの店主も商売への熱意が薄い。
ガラは悪いが陽気な若者が闊歩し、犬や子供が低い場所を動き回っている。
狭い通りには飲み屋のようなたまり場があり、老若男女が車座になってビールや地酒を飲み回している。
お金を要求されるが比較的淡白でしつこくはない。

そんな喧騒の中を三人で歩いていくと、サッキーの知り合いがやっている酒場に出た。
酒場といっても、閉じてる空間ではなく、単に酒が飲め、適当に網の上に長い間転がって干からびた焼肉が食えるというだけである。
丁度焼けた肉を女の子がナイフで一口大に切ってくれる。
一口10円くらい。硬くて食い応えのある一品だ。

その後サッキーの大家が肉を提供すれば夕飯を作ってくれるというので、そこらで肉を買い持ち帰った。
作っているのを待っていると、どこからか肉の匂いを嗅ぎつけて人が集まってきた。
こういう能力は本当に高い。
持てるものからはとことん取ろうという根性。
しかも誰なのかさっぱりわからない。自己紹介もない。
サッキーもよくわからないという。
これがなかなか傲慢なおばさんで、ビールはないの?と聞いてくる。
「あぁ、ビールが飲みたい」と当てつけるように言ってくるので、
「ふーん、そうですか、今日は暑いですからね」と適当に流していたが、あまりにしつこかったのでその場を離れた。

しばらくシャビーン(薄汚れた酒場)でビールを飲んで帰るとさっきの誰だかわからないおばさんが、
「あんたら自分達だけ飲んでずるいわねぇ、どうして買ってこないわけ?」と絡んでくる。
そもそも誰なのかもわからない傲慢なおばさんにビールをおごることもないので、
「いやぁ、ビール美味しかったですよ」と意地悪を吐いてやった。
そうしてしばらくしたら、自分で買ってきたのかビールを持っていた。
やればできるじゃないか。それでいい。

大家が作ってくれたのはシチューとマハング(稗みたいなのを練ったもので蕎麦掻に似ている)だった。
なかなか味付が濃く、マハングが進んだ。
私がサッキーにマハングおかわりできるか?と聞くと彼は台所へ行こうとし、途中で引き返してきた。
そうした態度から、大家に対する遠慮が窺える。
そう彼の言動には慎みを感じるのだ。
彼のそういうところが私に何か安心させるものを与えていた。
そして彼は自分のマハングを指し、「俺のを食え」と言う。
私はただでさえろくに飯を食っていない彼から取るのは悪いと思いつつも、
旅を続ける中で身に付いてしまった「申し出を断らない習性」から「いいのか?」と聞いていた。
「いいんだ、食え」と差し出してくれた。
そういうわけで私はサッキーが大好きになった。

それを見ていた隊員は私にマハングを奪われたサッキーを同情して肉を分けていた。
ふむ、旅をしていく中で私もずいぶん堕ちてきたではないか。
それでいい。堕ちて甘えることで見えることもあるはずだ。

沢木耕太郎曰く、旅人とは人の善意を食って生きている、と。
まさしくそうだと思う。
そして善意を有難く食えているうちは正常なのだと。
私は日々人の善意を食って生きているのだ。
人生を旅になぞらえることができるのであれば、人生においても人は人の善意を食って生きていると言えるだろう。
しかし、日々の暮らしではあまりそういう風に考えることはない。
定住しているおかげでwin-winの関係が前提になっているからだろうか。
一期一会の旅であるからこそ善意を食うという行為が鮮明に浮かび上がってくる。

夢を食う動物が獏で、
下ネタを食うのがサッキー、
そして善意を食うのが旅人であり根のない者だ。












0 件のコメント:

コメントを投稿