公示が終わり、町が心なしかにぎやかになった気がする。一部だけ、ほんの一部だけれども。
ちょっと気になった写真があったので。
いいオヤジがお互いがお互いをがんじがらめにして苦しんでいる図、ではない。いや実際、足の引っ張り合いのようなことをやっていることもあるけれど、これはきっと仲良くやろうね、というアピールなのだろう。
私はどうしてこんなに繋ぎにくそうな手のつなぎ方をするのだろう。と思ったわけで。
そう言えばASEANの会議でもこんな手のつなぎ方をしていたので流行なのかもしれない。
でもG8や欧州の会議ではこんな風な手のつなぎ方をしているところを見たことがないことを鑑みると、アジア特有の手のつなぎ方なのかもしれない。
この国際会議などで見られる手繋ぎは握手の活用であるとWiki様はおっしゃる。
- 国際的なイベントなどで、首脳陣など各国代表が数人で手を交差させて握手をする風景が見られる。この場合、カメラ目線となる(複数の政党の融合による新党結成時などでも見られる)。
では握手とはそもそもなんだろうか。
ことバンクから拾ってきた大辞林第三版の説明によれば、
挨拶として,また親愛の気持ちや喜びを共にする表現として行う。
とある。
握手は武器を持つべき利き手を相手に預ける所作であり、好意的な姿勢を示したいときや、和解の姿勢を見せるときに用いられる。つまり積極的に自分から利き手を出すことで、自分に攻撃の意思がないことを提示するものである。それに相手に接触するという物理的な接近が心理的な接近を産むのを助ける作用もある。
私はアフリカを旅している中で、挨拶のみならず、たくさんの人々と握手を交わしてきた。時にはチキンやサトウキビを食べたばかりで、べとつく手もあったけれど(ちょっとだけね、不快)、握手を交わすことで本当に自分の好意が伝わることを感じてきた。握手をしたら仲間になれる気さえした。
それだけ握手という行為は大きな力を持っている。
さて話をもどそう。どうして交差する手繋ぎが生まれたのか。普通に右手は右側にいる人と、左手は左側にいる人と手を結べばいいじゃないか。と思える。なぜ交差するのか。そこにはやはり心理的な距離感の接近があるのだろうと思う。交差して手を繋ぐと物理的に相手により近くなるうえ、手を伝って体に流れてくる相手の何か(もし気というものがあるのであればそういうものだろう)が描く軌跡は頭の辺りで一度ループを描いて逆側の手から出ていくような気がする。一方普通に繋ぐだけだと、頭を通らずに胸の辺りをすーっと突き抜けるだけで短い、気がする。人から受ける何かが体の中を少しでも長く走ればその分、距離も縮まりそうではないか。
そういう感覚が交差繋ぎを始めた人々の中にはあったのではないだろうか。
Wikiさまはこんなこともおっしゃっていた。
作家やアイドルなどの有名人と握手をするイベントがある。一般的に握手会と呼ばれ、参加者が一人ずつ握手をする。中には、憧れの人との握手後、しばらく手を洗わないというファンもいる。また、握手会の前に手のアルコール消毒を求める場合もある(インフルエンザの感染予防のためなど)
こういうことを書くからWikiさまのことが好きでたまらない。
インフルエンザの感染予防、で思ったのだが、そういう観点から握手には「一蓮托生」の側面が見えてくる。まぁまぁ同じ細菌を共有するんだから仲良くしましょう、というそんな意図が隠れているのではないか。
実際に人の手の表面には数億とも言われる菌類が付着している。それを交換する、または共有する行為が握手であり、それによって共同の意識が芽生えてくるのではないだろうか。つまり何か同じものを共有した時に生まれる仲間意識が芽生えると。
私は旅の途中、その土地々々で何を触ったかわからぬおじさんや子供たちと握手し、細菌を頂いてきた。それでまた手でご飯を食べるもんだから、完全に体内の共生菌も彼らと共有していたに違いない。だからこそ(チフスに罹りはしたが)元気に旅を終えることができたのだと思っている。
だからアイドルがファンと一体感を持ちたいのであれば、ぜひアルコール消毒なんかせずに、細菌共有してほしいものだが。いかが?
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