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2013年12月23日月曜日

寝台列車に乗って

Bulawayoで知り合った人の家に自転車を置いて、ザック一つ背負って駅まで向かった。
しばしのバックパッカー生活だ。
出発時刻にはまだ時間があったので駅のレストランで夕飯を済ませる。
サザ(トウモロコシの粉を練ったもので南アやナミビアではパップと呼んでいた)にコラーゲン質の多い牛肉の安っぽい部分の煮込み、青菜のくたくた炒めだ。
これで2USドルだ。
日本だったら立ち食いソバだったろうな、などと考えながら熱々のサザを手で口に運ぶ。
高校時代に夏山の合宿で東北の山に行ったときもこんな気持ちだった。
列車の旅の前に駅で食べる飯と言うのはどうしてこんなに旨いのだろうか。
蕎麦然り、サザ然り。

食べ終わってテーブルの上のたらいで手を洗い、ホームに向かう。
ホームは薄汚れた蛍光灯が10mおきに光っているが、なお暗い。
標高も高いせいか夜風が涼しい。
奥の方に人が固まって座っており、一人一人の周りに彼らの持ち物であろうバケツやら毛布やらがその場の煩雑さを増している。
次の瞬間、その煩雑な人の塊りが急に動き出して、ばらばらに走り始めた。
どうやら目当ての電車が来たようで、座席指定のない三等車の乗客が席を争って先を急いでいるらしい。
バケツを頭に、毛布を右手に、左に子供を引き、背に赤子を背負う。
たくましき母の姿。
彼らの流れに乗って4番線に行くと貨物に近い三等車の方が賑わっている。
前から機関車、貨物、三等、二等、一等、最後に客の貨物車の並びだ。
4番線のホームは蛍光灯がところどころ切れているせいで更に暗い。
列車も本当にこれから走るのかと思うくらいに静かに暗く沈んでいる。
三等車に限っては明かりすらついていない。
その暗い箱の窓から人々の熱気と荷物を渡す掛け声や、人を呼ぶ口笛が漏れてくる。
入り口からではなく、窓から次々と荷物が入れられてゆく。これでもかと言うほどにつめこまれてゆく。
後列に目をやるとソファーやベッドなどの大きいものが何人かの男たちによって運び込まれている。
私は優雅に一等の寝台車を取っていたので、その喧騒から少し離れた車両に滑り込んだ。

内装は艶やかにニスが塗られた木目の美しい木張りである。
あまり掃除が行き届いてないのでいたる所べとつく感じが年季とは違った味を出している。
私のコンパートメントは二人部屋で、二段ベッドだ。
明るくなってから


相棒はかつて育ったザンビアに住んでいる友人を訪ねるという目的で来ているケープタウン在住のスティーヴだ。
かつての国名ローデシア時代の客車でローデシアン鉄道のロゴRRが鏡に入っている。


当然ながら現在のジンバブエの空気として、ローデシアという名前はあまり好まれたものではないので、それを今も大事に使わなくてはならない状況をスティーブは皮肉だね、と笑っていた。

夜7時半発という話だったが、列車が動き出したのは8時半だった。
汽笛が薄暗いホームに響き列車がゆっくりと動き出す。
線路に充満している油の匂いが巻き上げられ夜風に香る。
鉄の車輪とレールが擦れる激しい音とともに列車はホームを滑り出た。
十分ほどでBulawayoを抜けると、常に煌々と明かりが続く日本の沿線とは違い、ナトリウム灯が点々としているだけだ。

とうとうナトリウム灯も姿を消し、辺りはまっくらになり、月を抱いて微かに籠り光る雲の隙間より久しぶりの星が輝いている。
沿線には漆黒の森が息を沈めて静かに眠っている。
仄かに花の香りが冷えた空気に混ざって窓から入ってくる。
突然列車が重たそうにブレーキをかけて物凄い音とともに真っ暗な所で停まった。
暗闇から人の声と口笛が聞こえてくるのでそこに人がいるのがわかる。
人が乗るのもそうだがどちらかというと、ものが積まれたり降ろされたりしているようで「よろしくー」みたいなやり取りがされている。
そんな調子でいくつもの暗い駅で停まりながら列車はゆっくりと進む。
時速40kmで停まってばかりなので500kmを15時間くらいかかる。
そのうちに私はいつもよりもはるかに寝心地のよいベッドで安らかな眠りに落ちていった。

朝スティーヴに「見てみろ、動物が見られるぞ」と起こされた。
少し眠り足りなさを感じながら窓の外を見てみると、昨夜暗く沈んでいた森から朝日が昇ろうとしていた。




動物は遠くの方の茂みにインパラのようなものが見えただけだったが、森の空気が清々しく気持ちよかった。
しばらくスティーヴのベッドを占領しながら窓の外を眺めていた。
後ろでスティーヴが廊下を行く黒人乗務員に片っ端からンデベレ語ではなしかけているではないか。
少し強引なので幾分「俺は話せるんだぜ」といった風を感じがしないでもなかった。
白人でバンツー系の言語をつかえる人を初めて間近に見た。
スティーヴが話しているのは南アのメジャーなバンツー系言語であるズールー語だが、ンデベレとは比較的近いので通じる。
ところがどっこい、乗務員はショナ語(ジンバブエの主要民族の言語)を母語とする人だった。
「あなたは黒人を見るとみんなンデベレ族だと思うのかね?俺はショナだ」と年配の乗務員は少しムッとしたように言った。
これは普段われわれアジア人が「チャイナ!」と言われて感じていることと全く同じだったので可笑しかった。

このスティーヴ爺さんがなかなかもって個性的だった。
煙草はあまり吸わないでほしいと乗務員に頼まれると窓から捨てようとして「棄てるな!」と怒られてニコニコしている。
その後も結局何だかんだ言い訳して吸うのを慎む気配はない。
私も煙草の煙はあまり好きではないので、吸い始めたときに外で吸ってくれないか頼もうとしたが、
こんな感じの人だったので私の方が頼むのを慎んでおいて正解だった。
無駄骨でイライラするところだった。

スティーヴ爺さんは植民地時代に英国で生まれ、ザンビアで青年時代まで過ごしてジンバブエ、その他ヨーロッパでも生活してきている。
そうした背景が今の個性的な自由奔放さを作っているようでもあった。
私が持ってきていた石油コンロで紅茶を淹れ、ジャムパンをともにご馳走すると、
「もう紅茶は諦めていたよ、まさか飲めるとは思わなかった。最高においしかった」と、喜んでくれた。
彼は40年くらい前にもこの列車を使ったことがあり、その時の記憶で食堂車があると思っていたので何も持っていなかった。
食堂車でワンゲの森の空気を吸いながら美味しいモーニングティーを取ろうと思っていたに違いない。
乗り込んで何もないことを知り、とてもがっかりした様子だった。

隣のコンパートメントでは、ガスコンロで本格的に朝食を作っていた。
木製のコンパートメントでよくもこういうことを許してくれるものだ、とその寛大さに感心していた。

朝早いにもかかわらず森に拓かれた駅と思しき空間は賑やかだ。
見送る人、見送られる人、荷を託す人、託される人。







出ていく荷物、入ってくる荷物。
線路という二本の鉄の轍がこれだけの人とモノを運ぶということを考えると、鉄道の役割の重大さが感じられる。
持ち込み荷物は無料なので誰か町へ行く人に頼んで買ってきてもらい、駅で降ろしてもらうのだ。
とても上手く鉄道を利用している。
そうして一日一回、物や人がBulawayoというジンバブエ第二の都市からまるで動脈を流れる血液のようにビクトリアの滝という体の隅まで流れていく。
ワゴン車が荷物を迎えに集まっている駅もあった。
更にそこからそれらで末梢へと運ばれてゆくのだ。

頭にマンゴーを載せて鉄道に乗り込んで来るおばちゃん。
次の駅まで乗って客車で売り、また元の駅へ戻っていく。



8歳くらいの男の子も負けじと頭にたらいを載せて、おばちゃんのそれよりも小さいものを売っている。
値段は4個で10円と安く、小銭稼ぎだ。
黄色く熟れて旨そうだったので買った。
これからマンゴーの時期だ。
これまでのルートでは果物の値段が高かったが、この辺りから安くなって豊富になっていく。
ナミビアとボツワナの通ってきた場所は乾燥していたため、果物や野菜がなかなか手に入らなかった。
あっても新鮮でないうえに手ごろな値段でないので、それらに非常に飢えていた。
南下してくる旅人からタンザニアやケニアでの豊富さを聞き、果物天国に行くことを夢見ていた。
野菜をあまり摂れない旅行中は日本にいる時以上に果物が恋しくなるものだ。

列車は国立公園やいくつかの鳥獣保護区を突っ切っていく。






一通り朝の空気を体に取り込むと再び気持ちの良い眠りに吸い込まれていった。
乗務員の「5 minutes to Victoriafalls!」と言う声で目が覚め、急いで荷物をまとめて降りる準備をする。
予定到着時間を1時間半過ぎただけで着いたのでとてもいい走りだったのだろう。

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